地雷処理

地雷処理

曽野綾子先生がカンボジアの「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」の活動を見に行かれるということで私も連れて行って頂きました。バンコクから車で約4時間半。ようやく着いた国境に出迎えて下さったJMASの高山良二主任、高田善之副主任、現地スタッフの人達。制服についた胸の日の丸が輝いています。

国境を渡り車を乗り換えると道は一変、舗装していないガタガタ道です。たった一本の川を隔ててこんなにも景色が変るということ、これが国が違うということなのだと実感。新鮮な驚きでした・・・。

発見された地雷

訪ねた所はカンボジアのバッタンバン州カムリエン郡タサエン・コミューン。4つの村からなる人口5000人弱の地区です。JMASはここで、カンボジア全土に500万ともいわれる内戦で埋められた地雷を、ひとつひとつ処理する作業を続けています。私達は実際に活動している現場を見学させて頂きました。二人一組でひとりが少しづつ草を刈り、刈った部分をもうひとりが金属探知機で地雷の反応を見ていきます。作業中のデマイナー(地雷処理要員)達の顔は真剣そのもの・・・作業が終わるとあどけない笑顔に戻ります。地雷犠牲者の家族や特に貧しい人を優先的にデマイナーに採用しているとのこと。しかし収入源というだけでなく、これ以上犠牲者が出ないように、自分達の手で安全な地域を作っていきたいという若者達の未来への夢を感じました。

デマイナーの女性達と

一日の仕事を終えてこれから帰ります

高山さんと一緒に私も俄か先生

高山主任と高田副主任は毎日夕方5時から約1時間、近所の小学校を借りて子ども達に日本語を教えています。私も2日間参加させて頂きました。まだ4月から始めたばかりということでしたが、みんな日本語を勉強するのが楽しくてしょうがない様子。次々と「あなたの名前は何ですか?」「あなたはどこから来ましたか?」「あなたは何才ですか?」と質問してきます。私の名前も覚えてくれました!

高山さんはまるでみんなのお父さんのよう。たまたま縁があったこの地域の将来をしっかりと見据え、愛情を持ってすべてのことに取り組んでおられる姿に感動しました。

子ども達はみんな一生懸命

みんなに名前を覚えてもらいました

小学校の隣に住んでいる子ども達

タイとの国境

宿舎の隣の女の子

実物の地雷を前に説明をする高山主任(右)と高田副主任(左)

昨年1月には悲しい事故が起こりました。今までにない金属反応が出たために、小隊長はじめデマイナー達が集まって検証していたところ地雷が爆発して7名が命を落とされたのです。その時高山主任は帰国するため、空港におられました。事故の知らせを聞きあわてて現場に駆けつけ、それから2日間は7名の遺体を探し続けられたそうです。一周忌には慰霊碑が建てられ、7名の写真とお骨の一部も安置されています。その写真を見ながら、ひとりひとりのことを説明された後、「すべて私の責任です」と言われていた高山さんの言葉を私は忘れることができません。どんなにか無念だったかと思うと胸が締め付けられる思いでした。

その後、食事の席での「順調にいっているときこそ気をつけなくてはいけなった」「ここに来て自分の弱さを思い知った」という言葉の中には本当にしなやかな強さを感じました。

今後ひとりの犠牲者も出ないことをお祈りします。

亡くなった方の慰霊碑

慰霊碑の中には写真とお骨が・・

夕食。高山さんたちのために曽野先生は日本からしゃけやたらこ、日本のお米を持ってこられました。

台所

お借りした高田さんが普段使っている部屋

今回私達はJMASの宿舎に泊めて頂きました。たった2泊ではありましたが、お湯も出ない、シャワーもない、蚊帳の中で寝るという普段なかなかできない体験。

ひとりで村の中を歩いていると、みんなが「こんにちわ!」と声をかけてきます。なついてくる子ども達の目の輝き、簡素な今にも倒れそうな家でありながらも案内してくれる女の子。

日本にいては感じられないことをたくさん感じることができたカンボジア。そして日本人としての誇りを持つことができた2日間でもありました。是非また行きたいと思います。

大変お世話になりありがとうございました。

トイレ(左)、右のお風呂のような所に溜まっている水を洗面器で汲んで顔や体、髪の毛を洗います。

宿舎の外観

通訳のミエン

通訳のバーン

ドライバーの子どものさくらちゃん、名付け親は高山さん

この記事は2008/06/24に公開され2024/02/28に更新、2 ビュー読まれました。

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